【from】井口優子 訴訟社会の希望
2005/03/28, 産経新聞 東京朝刊
日本でもアメリカ型ロースクールができ、訴訟社会突入は目前である。
医療分野ではすでに、大病院の多くは何件も医療訴訟を抱えているのが日常になりつつあるようで、医療従事者のための医療訴訟についての勉強会がよく開催されている。その一つを見学した。
昨今の医療訴訟の二つの重要な争点を取り上げていた。一点は治療が医療水準に従った注意義務をつくしたか。もう一点は治療の選択やリスクを患者が理解できるように十分に説明したかである。
ことに二点目の説明義務違反で病院側が敗訴するケースが目立ってきている。口頭で説明していても、カルテに記載がなく、他に立証する手だてがないと、裁判官が認めてくれないケースもある。
「患者に十分理解させる」というが、ここ一年半、日本の医療現場を取材し、いろいろな患者に話を聞いてみて、患者がきちんと理解するのは容易ではないと実感した。
医師におまかせという患者はもちろんだが、「自分の人生は自分で決めたいので情報はすべて知りたい」という人でも、ことに治療開始前は、いやな話は聞いても耳に残らないことが多い。希望だけを見て治療に向かうからである。厳しい状況で人間が生きようとする本能なのだろうか。
在米時、私が好きだったホームドクターのワッツ医師は詩人でもあった。彼が患者と面談するりっぱな書斎の壁には、十九世紀の詩人の言葉が額縁に飾られていた。
「最高の医師とは、常に患者に希望を与えられる医師である」
予後の悪い患者にどんな希望を与えられるのですかと私が聞くと、「病気がよくなる可能性にかけて、あらゆることを試してみなさいとすすめます。それも希望の一つなのです」。
訴訟社会アメリカで、サイエンスを信奉するアメリカで、こんな言葉も語られるのである。いや、ネバー・ギブアップのアメリカらしい言葉というべきなのか。(いぐち・ゆうこ=ジャーナリスト)