【書評】「ラッキーマン」 マイケル・Jフォックス著、入江真佐子訳
2003/01/26, 産経新聞 東京朝刊
◆内面豊かになるまでの軌跡
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで、世界的超有名人となったマイケル・J・フォックス氏は、ある朝左手の小指の震えに気づいた。北アメリカでは十万人に一人という若年性パーキンソン病の兆候であった。小指の震えは左半身の震えへと進行し、悪化する一方の症状を薬で押さえ込んで、病を隠して俳優を続けること七年。
現実をみようとしないその期間に真っ先に犠牲になったのは、「信頼」関係であった、と彼は書く。不治の病を抱えた自分が拒絶されることをおそれ、愛する妻や子供の前でも正常をできるだけ装おうとする自分がみじめでつらく、酒に逃げ、安心して症状がだせるのはバスタブの中でだけだった。「長年自分が自由になる場所を求め、その行きつく果てが2・7×14・8メートルの部屋にある水の箱だった」という一文は秀逸である。そしてここから脱出する力を与えてくれたのも家族だった。
「聡明(そうめい)な」妻のとった態度はアメリカ文化そのものである。彼女は、苦しんでいる夫に彼女の信頼するセラピストの電話番号を渡し、夫が自分からセラピストに救いを求めるまで、じっと見守る。このままでは心まで病になってしまうと、とうとう彼は「降伏の白旗」をあげ、セラピストの電話番号を回す。現在の自分自身をありのままにだせる場を得、おそらく子供時代にまでさかのぼって、自分が何者であるかをみつめなおすプロの手助けを得て、彼はようやく内と外が統合した自分を手にする一歩を踏み出すのである。
病以前、彼は「自信にあふれ、体も敏捷(びんしょう)に動き、幸せで成功しているように見えても、内心では自分に自信がもてなく、バランスを欠いていた」。が、外からみるとまったく正反対な今、内面は深く豊かになり、その機会を与えてくれた病を「贈り物」と思い、自分を「ラッキーマン(幸運な男)」と心底思えるようになるまでの心の軌跡が、これほど正直に真摯(しんし)に語られるとは、本を読む前、私は想像だにしなかった。(ソフトバンクパブリッシング・一六〇〇円)
評論家 井口優子