【from】井口優子 移動社会の魅力
2004/06/11, 産経新聞 東京朝刊
イラク戦争開始後、アメリカを嫌いだという人は増えたが、アメリカの良さは厳然としてある、と私自身は思う。それは生きかたの選択の幅が広いことだろう。
私がアメリカに住み始めた一九八九年ごろのニューヨーク・タイムズにアメリカ人の生涯引っ越し回数の平均が七回と出ていたが、私も滞米十三年の間に東海岸から西海岸へと大陸横断をすること三度、市内での引っ越しもいれれば計八回引っ越した。アメリカ人の元亭主が医師としてのトレーニング中であったこともあるが、仕事のチャンスのみならず、自分にあった生活スタイルを求めて全米を移動するアメリカ的生きかたを私も多少体験した。
しかし、日本恋しが募って徐々に足場を東京に移し、東京で部屋を借りようと、ここ一年ほどで物件を何十件と見たが、どうも決める気になれない。この狭さとこの設備でこのお値段、と思ってしまう。狭さに関しては仕方がない、と頭では納得する。が、引っ越し費用がかかりすぎることになじめなくなってしまった。
都合九年間住んだサンフランシスコは、アメリカ人が最も住みたい都市の一つに毎年あげられ、全米で不動産価格が一番高い都市である。それでも賃貸時に大家は、物件を壊されたときや夜逃げされたときの担保として家賃の一カ月か一カ月半分を預かるだけである。この担保金を大家は銀行に入れ、退去時は利息付きで返却しなければならない。生活に必要な大型電化製品は冷蔵庫をはじめとして、洗濯機、乾燥機、食器洗い機などがまず備わっている。
移動社会では家の売買も盛んなので、不動産屋も賃貸物件のわずかな手数料で金を稼ごうとしない。物件探しの主役は、新聞・インターネットに加えて、物件の窓に張られた「賃貸」などの個人広告である。
この引っ越しの容易さが、生きかたの自由度を支えるシステムであるなーと、東京の物件を見ながら思ってしまうのである。(いぐち・ゆうこ=ジャーナリスト)